妊娠中に禁煙したあと、また吸い始めた

妻の妊娠中、最初のたばこのない朝は、匂いがこちらを敵に回したところから始まった。やかんのスイッチがちょうど切れたばかりだった。キッチンのテーブルには灰皿があり、昨日のたばこがまだ曲がったまま残っていた。彼女はそれを、自分のものではないみたいに人差し指と中指で押しのけた。彼女が喫煙を始めたのは18歳のとき。私が吸い始めたのは19歳のとき。それ以来、たばこは私たちの大人としての暮らしのほとんどについてきた。だから、その小さな仕草は、どんな言葉よりも大きく見えた。
ほぼ2年間、妊娠から授乳まで、彼女はたばこを完全に断っていた。生活の片側から習慣が離れていく一方で、もう片側には私の分だけがしっかり残っているのを、私は見ていた。ひどいときの私は1日に40本近く吸っていて、2人合わせれば、おかしいと感じることもなく、およそ3箱を空けていた。すると突然、テーブルの椅子が1脚あいた。コートのポケットにはライターが入っていなかった。家の中の1人が、夕食のあと外に出なくなった。
これで問題は自然に解決したのだと信じたくなったのを覚えている。彼女が息子のためにやめられるのなら、もしかしたら、その習慣はついに家の中での支配力を失ったのかもしれない。そんなのは、あまりに都合のいい物語だった。妊娠は、私がどんな言葉を並べるよりも強い理由を彼女に与えてくれた。でも、それで家の形が変わったわけではなかった。私は相変わらず同じ場所で吸っていた。ベランダのドアの開き方も、前と変わらなかった。たばこの箱はまだ引き出しに入ったままだった。古い動線は、今も灯りがついたままだった。
その休止は見た目ほど強くなかった
あの2年間は本物だった。そこを小さく見積もりたくはない。あの時間には意味があった。私たちの家の中でも、たばこのない暮らしは可能だと示してくれたからだ。間違っていたのは私だった。その休止を治癒みたいに扱ってしまった。でも実際には、それは守られた季節にすぎなかった。
当時、息子はまだとても小さかった。1日は、授乳、沐浴、短い昼寝、洗濯、そして赤ちゃんのいる家にじわじわと降り積もる鈍い疲れでできていた。喫煙はその光景の中心からは外れていたが、端までは消えていなかった。私は相変わらず外からたばこの匂いを持ち込み、ライターをテーブルに置きっぱなしにし、昔のリズムを当たり前のように見せていた。危険を知らせるものは何もなかった。習慣はそうやって生き延びる。
紙の上なら、それは妊娠中の禁煙後の再喫煙として片づけられる。けれど、実際の家の中では、もっと静かに起こる。疲れた夜に1本だけ手を出してしまう。数日後にもう1本。赤ちゃんがようやく眠って、静けさが妙に感じられるから、ベランダで少しだけ。すると、部屋は残りを思い出してしまう。
私はそれを見て、弱いとは思わなかった。見覚えがあると思った。儀式は、私たちが置いていった場所で、そのまま待っていた。コーヒーはまだそれを覚えていた。食後の疲れもまだそれを覚えていた。半開きの窓のそばに立つことも、まだそれを覚えていた。習慣が何年も家の中で生きてきたなら、戻ってくるのにドラマはいらない。必要なのは、昔の家具だけだ。
罠だったのは人ではなく、家だった
その責任の一部は、私にもはっきりある。告白としてではない。事実としてだ。私は相変わらず吸っていたし、その習慣が普通に見えるよう手を貸してもいた。それは大事なことだ。配偶者の一方がもう一方を支配するからではない。家の中の全員がもううんざりだと言っていても、家というものは、あるパターンを何度でも迎え入れてしまうからだ。
そこが、何年ものあいだ私には見えていなかった。禁煙は、気持ちの問題だけだと思っていたのだ。十分に望み、十分に守り、子どものために十分に怖がれば、あとは自然についてくるはずだ、と。でも、たばこは部屋に、ひと休みの時間に、夕方に、そして静かに5分だけ席を外す癖にまで入り込んでいた。強い理由がそれを中断することはできる。でも、それだけで家に新しい習慣を教えることはできない。
ずっと後になって、私がようやく本当にやめて、妻もやめたとき、あの古い章は前よりずっと腑に落ちた。私はそれを、再喫煙が避けられない証拠として読むのをやめた。代わりに、責めても何も説明できない証拠として読み始めた。彼女はすでに、あの2年間で、たいていの人生相談欄が人に求める以上の強さを見せていた。彼女を引き戻したのは、息子への愛が足りなかったからではない。煙を中心に据えたままの暮らしだった。
息子は、もう22歳だ。振り返って残るのは、そこだ。失敗ではない。罪悪感でもない。習慣がどれほど静かに待てるかという、はっきりした光景だ。ベランダのドアのところに、夕食後のキッチンに、同じ古いコートのポケットに潜んでいて、戻ってくることをほとんど筋の通ったものみたいに見せることができる。
その記憶はいまでも私の助けになる。人柄をめぐる、いつものくだらない話を剥ぎ取ってくれたからだ。問題は、誰がより強く思っていたかではなかった。何年もかけて身についたものが何だったのか、そしてその訓練のどれだけが、ふつうの家庭生活の中に組み込まれていたのか、それだけだった。それが見えたとき、壁の中に織り込まれた問題を、説教や英雄的な約束で解決できるとは思わなくなった。
もしあなたの家にも同じような静かな引力があるなら、その場しのぎの対処は長くは持たない。ガイドで J. Freeman が示している穏やかな道筋は、こうした、家庭で共有されるありふれた罠のために用意されている。家を戦場に変えずに、一歩ずつ進めるためのものだ。


